水天宮

安産、子授けのお宮

土地柄ですね。出店が出産関係の品物を売っています

安産子育て河童

水天宮の境内には、他に3つの神社が祭られています

戦前の水天宮の賑わいを写した写真が展示されていました。この辺りも空襲で全て焼き尽くされた地域です。現在の建物は戦後再建された物です。

 水天宮の発祥は、今から700年前にさかのぼります。平清盛の血をひく安徳天皇は、源氏の厳しい追及に京都から西へ西へと逃げていきました。しかし、ついに壇ノ浦(山口県下関市)の合戦で、源氏の軍船に取り囲まれ、祖母の二位の尼に抱かれ、母の建礼門院と共に波間に身を躍らせました。時に1185年、安徳天皇8歳のことでした。

 お仕えしていた官女の按察使局(あぜちのつぼね)は、ひとり源氏の追っ手を逃れ、九州は筑後川に辿り着きました。局も壇ノ浦で共に入水しようとしたのですが、二位の尼に止められ、お前は生きて、われらの霊を慰めよ、との命を受けたのでした。

 局は川のほとりに小さな祠を建て、安徳天皇とその一族の霊を慰める日々を送りました。これが今に続く水天宮の起源と伝えられています。
 その後、有馬忠頼公により、現在の久留米市瀬下町に7000坪の敷地が寄進され、豪壮な社殿が造られました。
 安徳天皇は御年わずか8歳で、犠牲となって海中に沈まれましたが、万民を救う尊い神慮によるとされ、大きな信仰を集めました。

 江戸時代、大名には参勤交代が義務づけられていました。藩主は、領地を離れ、江戸詰をしなくてはなりません。その間は、水天宮にお参りができないので、第九代頼徳公は、久留米から分霊をして、江戸屋敷内(現在の港区にあった)に、水天宮を祀りました。1818(文政元)年、東京水天宮のはじまりです。

 本来、お殿様の屋敷神として祀られたもので、一般の人がお参りすることはできなかったのですが、江戸っ子たちの信仰は次第に高まり、塀越しに賽銭を投げ込む人が後を絶ちませんでした。遂に五の日に限り屋敷が開放され、参拝が許されました。

 人々は、「情け深い」ことを感謝する際に、有馬家と水天宮を洒落て、「情けありまの水天宮」と口癖のように言いました。「恐れ入りやの鬼子母神」という言葉と共に、江戸の一種の流行語だったのです。

 1871(明治4)年、水天宮は屋敷の移転と共に赤坂に移り、さらに翌年、現在の日本橋蛎殻町に移転しました。日本橋蛎殻町界隈は、人影もまばらな寂しい場所でしたが、水天宮が移ると共に、商店が増え始め、大変な賑わいを見せるようになりました。

以上 水天宮のホームページの説明より抜粋

アクセス : 営団地下鉄地下鉄半蔵門線 水天宮駅より徒歩1分